スタッフ紹介
館長 村山 暁洋
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暁道場は、第4代修斗環太平洋ミドル級王者、第9代ウェルター級キング・オブ・パンクラシストである村山暁洋が、2016年11月に東京都新宿区早稲田に設立した総合格闘技道場です。
普段運動をしていない方や初心者の方にとって、いざ運動をしようとしても、一人で続けていくのは、なかなか難しいことです。
暁道場では、格闘技を通じて一緒に練習を行う道場生やトレーナーがいますので、継続して楽しく続けていけます。夜明け前の暁として、道場を活用していただき、日々の活力にしてもらえるような道場を目指しています。初心者の方にもわかりやすく楽しく無理のない練習を心がけています。
皆様とお会いできるのを楽しみにお待ちしております。
身長:178cm
体重:77~90キロ
趣味:読書、サイクリング、漫画、アニメ、ゲーム。
代表の村山暁洋が、格闘技に魅了されたきっかけ
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まず、暁道場の代表がどのような人間かを知ってもらうためにも、私、村山暁洋が格闘技に魅了されたきっかけをお伝えしたいと思います。
1980年に長野県松本市で生まれて、父親の仕事で3歳まで南米ペルーで過ごしました。このときの記憶は全くありませんが、食事の嗜好はこのときの影響がある気がします。
記憶がある中では、私は、小さい頃よりバトル物のアニメや漫画、アクション映画が好きでした。小学校のときは自作の漫画を描いたこともありました。俳優はシルベスター・スタローンが好きで、特に映画のロッキーシリーズが好きでした。たまにテレビでやるボクシング中継も良く見ていました。
中学の時にK1がテレビでやっていて、k1にも興味を持ち格闘技雑誌を読み始めました。
レンタルビデオ屋で格闘技雑誌で話題になっていた、UFCの第一回のVHSを借りて観ました。
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その大会で優勝したホイスグレイシーの習得しているグレイシー柔術を調べると、柔道が源流ということを知りました。近いことがやりたいと思い高校では柔道部に入りました。
中学まではサッカーをやっていたのですが、部活中も友達と遊んでばっかりいたのもあり、ずっと補欠でした。
柔道部に入ったばかりの1年生の頃は、3年生3人、2年生2人、1年生は1人でした。1年生が1人ということもあって、丁寧に教えていただけました。
夏に3年生が引退してから人数が少なくなってしまったので、高校のOBで信州大学の方が稽古に誘ってくれ、週に3回ほど信州大学で稽古をさせてもらいました。
信州大学では寝業が強くて有名な京都大学出身の方がいて、寝業もしっかりと教えていただけました。
高校時代は柔道のことで頭がいっぱいで、全くと言っていいほど勉強をしていませんでした。入った頃は学年の真ん中よりやや上だったはずの成績はあっという間に酷くなり、最終的には学年でも最下位付近になっていました。
そんなわけで、大学には合格できず、高校を卒業してから一年間浪人をしました。理科や算数が好きだったのもあり東京理科大学に進学しました。
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東京に出てくるにあたり、NHKのドキュメンタリーで見た「東京学生寮物語~和敬塾の青春~」を観て面白そうだと思い、文京区目白台にある和敬塾という学生寮に入りました。
大学でも迷わずに柔道部に入りました。
高校時代と違って、同期が10人以上と非常に活気がありました。
学生寮での生活や柔道部は楽しく、授業にあまり出席しなかったので、大学では留年を繰り返してしまいました。柔道部の練習には毎日行ったので大学には通っていました(笑)
東京理科大学は当時、1年生は3回までで、4年目に進級できないと退学というシステムがありました。
3回目の1年生の春に何かをやらないと変われないと思って、昔から興味のあったインターネットで格闘技の「修斗」を調べ「ガッツマン修斗道場(現;ガッツマン)」を見つけ、見学に行きました。真剣な稽古内容を観て、ここなら強くなれると思い入門を決めました。
格闘技を始めたおかげか、3回目の1年生の時にはなんとか進級でき退学は免れました。
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ガッツマン1年目の時は、柔道部と並行していたので、週に2回くらい通っていたと思います。
ガッツマン2年目の時、私は学年は2年生でしたが、大学生活4年目だったので、柔道部では4年生扱いでした。6月にある全日本理工科大会という大きな大会も終わり、他の4年生と同様に柔道部の一線から退く形になりました。
時間ができてガッツマンに行く頻度も少し上がりました。ガッツマンで合宿があるということを聞き、時間もできたので参加しました。
合宿は海水浴とかもできて楽しいと聞いていたので海パンも持参したのですが、完全に騙されてしまいました(笑)
非常に厳しい練習が待っていて、本当にきつかったです。一応、休憩時間には海に行けるということでしたが、行った人はいませんでした。身体中筋肉痛で、何とか解散場所のガッツマンから、住んでいた和敬塾まで帰ってきたのを覚えています。
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合宿から帰ってきて、道場に行くと、全日本アマチュア修斗選手権のライトヘビー級(-83kg級)に空きがあるので応募してみないかと桜田先生に伝えていただきました。せっかくなので応募することにしました。
枠が合いていたおかげもあって、無事出場できることになり、1カ月くらいの期間をかけて試合に向けて練習をして、当日を迎えました。
試合は全試合の中の第一試合で、今までアマチュア修斗を見たこともなかったのですが、スパーリングはしていましたが、様子も分からずにいきなり試合でした。
その試合はごちゃごちゃした内容だったと思うのですが、何とか勝てました。
準決勝では、自信のあった立ち技で上を取られてしまい、そのまま上を取られ続けて負けてしまいました。
負けたことで、悔しく、そこから格闘技に真剣にのめり込んでいきました。
柔道も並行して稽古を行っていきますが、格闘技との比重は逆になり、柔道が週に2から3回になり、それ以外が格闘技になって、だんだんとのめり込んでいきました。
暁道場の設立
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東京理科大学に通いながら総合格闘技に魅了された私は、柔道部だったこともあって、柔道場が比較的自由に使えました。
ミットやグローブを道場の片隅に置いて、空いている昼間の時間に柔道部員と総合格闘技の練習を行っていました。
大学を8年間かけて何とか卒業した後は、さすがに大学を使わせてもらうわけにはいかないので、学生時代に住んでいた学生寮「和敬塾」のご厚意により、学生や職員の方を含めて稽古を行うことで、和敬塾内の道場を使わせていただけるようになりました。
和敬塾の道場は非常に素晴らしい所ではあったのですが、稽古を行っていくうちに、一般の方に、もっと輪を広げていきたいと思うようになっていきました。
その頃、ちょうど、現在の道場の物件が比較的借りやすい値段で出ていました。
自分でも何とか支払うことが出来る範囲だと思い、思い切って借りて自分で道場をやってみようと決意しました。
天井や蛍光灯は業者さんにお願いしましたが、壁塗りやマット敷きは先輩や仲間に手伝っていただきD.I.Y(Do it Yourself)で行い、手作りで道場製作を行いました。
のんびり作業をしていたのもあって、時間がかかってしまい、借りてからオープンまでに2カ月くらいかかりました。
オープンにあたり、自分の名前にある暁から文字を取り、夜明け前の太陽のように活力・元気を与えらえるような所にしようと思い、「暁道場」という名前にしました。
チーフインストラクター 荒井勇二
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Asia Jiu Jitsu Cup 2024 Black Adult Open Weight 優勝、NBT優勝、アブダブコンバット日本代表、総合格闘技15年、柔術黒帯、柔道三段、全日本学生柔道体重別選手権大会出場、北信越学生柔道優勝大会優勝
目標:いじめ撲滅
身長:182cm
体重:84~92キロ
趣味:スタンプラリー、パチンコ、ポイ活、モバ充、サイクリング、ダンス、お笑い、撮り鉄(鉄道撮影)。
柔道と長野オリンピック
荒井少年は中学入学とともに何となくかっこいいと思ってあこがれていた柔道部に入部しました。1学年300人いる大きな学校だったが柔道部に入った新入生は1人だけでした。
2年生になったら同級生のS氏が入部してくれて同学年の柔道部員が2名になりました。
S氏は、村山暁洋の東京理科大学柔道部の後輩にあたります。不思議な縁を感じますね。
中学1年生の時には長野市に新幹線が開通しました。
新幹線の開通に合わせて、在来線はなくなってしまうので「特急あさま」に乗車して撮影しました。
新幹線の開通当日は使い捨てカメラを握りしめて長野駅へ撮りに行きました。その時の様子は、中学生が珍しかったのか地方紙のトップ画像に使われてちょっと誇らしげな荒井少年でした。
新幹線の開通は1998年長野オリンピック・パラリンピックの開催に間に合うように行われました。長野オリンピック・パラリンピックの思い出はたくさんある荒井少年のベスト5をお伝えします。
5位「新幹線と市長」
荒井少年がオリンピック・パラリンピックを観戦に行く途中で新幹線で当時の長野市長と会う。勇気を振り絞って市長からサインをもらいました。
偶然にも観戦して帰り道、道の駅で再び市長と会いました。
4位「アイスホッケーとボディーチェック」
荒井少年はアイスホッケーの試合を観に行きました。その時、入り口で入念過ぎるボディーチェックを受けました。その衝撃が強すぎで全く試合については覚えていない荒井少年です。
3位「何としても見たい表彰式」
日の丸飛行隊がメダルを取った試合の表彰式を見るために荒井少年は会場に行ったが、人が多すぎて見ることが出きませんでした。あきらめきれずに近くの建物の屋上にお願いして入らせてもらい見ることができました。
2位「マクドナルド・カウントダウン」
オリンピック・パラリンピックの開催に合わせてマクドナルドでカウントダウンのカレンダーが出ていました。どうしても欲しかった荒井少年は店舗に直談判しました。無事にオリンピック・パラリンピックにはもらうことができたのでした。
1位「栄誉あるクラス代表」
荒井少年小学4年生の時、クラスから2名オリンピックの研修に行けることになりました。立候補が多数出たためじゃんけんで決めることに。じゃんけんで無事勝ち残った荒井少年は2泊3日の研修に行くことができました。国内候補地で争った盛岡市、山形市、旭川市の小学生も来ていてかつては招致争いをした都市の少年たちと親交を深めることができました。試合が終わればノーサイドを学ぶ荒井少年でした。
中学3年生、最終学年の時にマイケルジャクソンのスリラーを学校の催しで踊ることになりダンスに目覚めました。今では練習後に道場でダンスを披露するときもあります。
絶賛随時執筆中
テクニカルインストラクター 壇 彬
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総合格闘技15年、剣術師範代
身長:180cm
体重:65~75キロ
趣味:サイクリング、漫画、アニメ、ゲーム。